(小説)ユースホステルとある女性の想い出

 


朝、食事の後片付けが終わった後「ドライブに行かない?」と私はヘルパー仲間の神原智子に声をかけた。神原智子は即座に「行く!」と返事を返した。


ここは北海道の道東、浜中町にある浜中きりたっぷユースホステルである。神原智子と私は、このユースホステルでヘルパーをしている。ヘルパーとは泊りがけのボランティアで、ユースホステルの諸般の仕事をする従業員である。食事と家賃はただ。基本的に何日いても、いつ辞めても良い。神原智子が先に来ていて、私は2週間くらいあとからここにやってきた。神原智子は自家用車で、私はフェリーと電車を使ってやってきた。


このユースホステルは眼下に霧多布湿原が見下ろせ、はるか遠くには霧多布岬が見渡せる高台に建っている。古い建物だが大きい規模のユースホステルだ。オーナーは元教師で酒飲みの開田誠という人。昼間からビールを飲んでいるような人だ。性格はおおらかで博識だが変わり者で、少しだらしがない、悪く言えばいい加減な人だ。


季節は8月の初め。私は神原智子に「どこに行こうか?」と訊いた。神原智子は「とりあえず東に向かおう」と答えた。西に向かえば厚岸を越えて釧路へ、北に向かえば別海町、東に向かえば日本最東端の根室だった。私たちはとりあえず、根室のノシャップ岬を目指すことにした。神原智子の自家用車ではなく、ユースホステルの古いマニュアル車(バン)で出かけることにした。ガソリンは満タンだった。マニュアル車など、教習所以来だったので、果たして運転できるか自信がなかったが、国道はとにかくまっすぐで、他の車も全然走っていないので、なんとかなると思った。


8時すぎにユースホステルを出発した。後部座席に古いラジカセを置いて、自前のカセットで音楽を聴きながら、どこまでも牧草地と低い草原や低木が続く道を飛ばした。ザ・バンドの『ザ・ウエイト』やボズ・スキャッグスの『We are all alone』がかかる。ドライブは快適で好調だった。ときどき牛糞の臭いがしたが、乾いて澄んだ空気は気分が良かった。道路はひたすらまっすぐで、退屈な風景が続いたが、時々鹿が道路に飛び出してくるので、安心はできない。


神原智子はデニムのジーンズに、くすんだ緑のサマーセーターというラフな服装だった。少しサンマに似ているが知的で落ち着いていて、端正な顔つきの美人で、ほっそりしている。ちなみにスモーカーでマルボロを吸っていた。お互い少し緊張しているせいか、少し遠慮がちに会話を交わす。神原智子は早稲田大学の第二文学部の出身で25歳と私よりも2つ年下で、東京で古本屋の手伝いをしていた、とのことだった。私は専修大学経営学部出身で、東京都ユースホステル協会を退職して、すぐにここにやってきたことを話した。実は私は絵描きか写真家になりたくて、来年の4月から美大に通おうか、写真学校に通おうか迷っていた。そのため、ユースホステルに来る直前に、釧路の幣舞橋近くの画材屋で、水彩絵の具やパステル、スケッチ帳などを大量に買い込んでいた(余談だが、釧路の市街を見下ろせる小さな公園で老人からナンパされて怖くなった)。さらにコンタックスの一眼レフにカールツァイスの広角レンズ、モノクロフィルムを大量に持ってきていた。2月にはトルコへ一人旅も計画していた。


車はやがて、尾岱沼を過ぎて根室市に入った。北方領土の貝殻島や国後島が望める日本最東端のノシャップ岬に着いた。ここまで約2時間ほどかかった。茶店で名物・蟹ラーメンを食べた。私は神原智子に惹かれていた。ここまでの道すがら、会話も少なめで、私ははたして神原智子が私に気があるのか、測りかねていた。ドライブについてくるくらいだから、特段悪い気をしていないだろう。おそくても13時までには帰らないといけないので、資料館(展望台)に寄ったあと、早々にユースホステルに向けて車を飛ばした。




浜中きりたっぷユースホステルは2階建て(一部3階建て)で、収容人数30人くらいの規模。2段ベッドが2組入った部屋が8つくらいあった。ほかにロビー兼食堂と、厨房や洗濯室から成っていた。ロビーにはテレビ・オーディオ機器のほかに、たくさんの本を納めた本棚があり、オーナーの趣味がにじみ出ていた。ユースホステルによっては、北海道恒例の『北の国から』のビデオが備えてあったりするが、ここにはなかった。

このユースホステルには、ヘルパーが常時5人くらいいて、古株から新米(仕事をあまりせずに、遊んでいるヘルパーもいる)までバラエティに富んでいた。神原智子と私(小林)のほか、関西出身で結婚から逃げて、浜中に来ている年かさのうーさん、酔うと英語ばかり飛び出してくる男の子、自転車が趣味のメガネの女の子、アジアにバックパッカーばかりしている女の子などがいた。

ここ浜中きりたっぷユースホステルのヘルパーの日常は、朝5時に起床して、知り合いの牧場に朝取りの新鮮な牛乳を、もらいに行くことから始まる。帰って来て朝食の準備と片付け、シーツの洗濯や部屋の掃除。午前中は定期的にイベントをやっているので、その準備と引率(あるいは同行)をした。湿原探索や嶮暮帰島(けんぼっきとう)上陸探検ツアー、鮭釣り体験、夜は天体観測会などがあった。嶮暮帰島とは、動物作家のムツゴロウこと畑正憲が1971年から約1年間、定住したことで有名となった無人島で、琵琶瀬漁港の沖合にある自然豊かな島だった。海鳥の繁殖地としても知られていて、絶滅危惧種で日本では稀少となっている、エトピリカの姿も確認されることがあるらしい。嶮暮帰島上陸探検ツアーには神原智子と私も同行した。

鮭釣り体験の場所は、ユースホステルから車で30分ほどの海岸で、化石が採取できるような崖のそばにあった。遠くから考古学者たちが調査に来ることもあるらしい、と地元の漁師兼旅館業の親父が話していた。ここの海域は産卵のために川を遡る鮭が、たくさん集まってきている。だから素人でもその気になればいともたやすく、体調60㎝ほどの大物を捕獲することができる。もっとも禁漁ということになってはいるが、地元の男たちは結構堂々としたもので、浜に何本ものルアーを間隔を開けて突き差し、リールを海に向けて放ち、効率の良い手段で鮭を釣ろうと試みる。ちなみに鮭は北海道ではアキアジと呼ばれている。

私はここでそのアキアジを釣り上げた事があった。件の漁師兼旅館業の親父の漁船に便乗し、戯れに釣りごっこを楽しんだときだった。参加者は10人ほど。親父の旅館の客が大半で、残りは私のほかはユースホステルの泊り客だった。神原智子は同行しなかった。小舟は縦揺れが激しく、もともと乗り物にはめっきり弱い私は、10分もすると体を起こして居られなくなった。親父はなるべく水平線の遠くを見ろと盛んに促してくれるが、継続した効果は薄かった。

そのうちに、私のルアーがみるみるしなりはじめた。初めて釣ったアキアジは、私1人の腕力では統御することが出来ずに、私より屈強の青年たちが集って助太刀をしてくれ、ようやく船底にその初めての獲物を横たえることができた。初心者には幸運が付き物らしい。私の獲物は腹にたっぷりと筋子を蓄えたメス鮭だった。

宿に戻って、親父に教わりながら生まれて初めて鮭を解体した。腹に刺身包丁の先端で切れ目を入れると、紅色をしたかたまりがドロッと溢れ出た。鮭の黒光りする鉛色の肌に、明るく橙色に輝く筋子の艶めかしさが良く映えた。切り身は後日、ユースホステルの客の食事のもてなしに供されるために、業務用の大型冷蔵庫に保管した。この作業には神原智子も加わった。筋子をほぐしてイクラを取り出す作業には、えらく時間と手間がかかった。イクラが筋子に比べて値段が高い理由がよく分かった。しょうゆとみりんと酒に漬け、一晩そのままにした。

ユースホステルの夜は、夕食を午後6時頃に済ませてしまうので、長かった。ヘルパーもホステラー(泊り客)も、各自めいめいに好きなことをして過ごした。ユースホステルによっては、集団行動を強いるところもあるのだが、ここにはそんな杓子定規な決まりはなかった。私は神原智子と、宿のラジカセで、お互い持ってきていた音楽カセットのダビングをし合った。神原智子は私が持ってきていたローラ・ニーロの『M Innocence』と谷村有美の『あしたの私に会いたくて』が気に入ったようで、自分のカセットテープにダビングをしていた。

ある日私は神原智子にプレゼントするために、太平洋に面した浜中町の小さな入り江で、石拾いに熱中したことがあった。海の波に表面が磨かれ続けて、それは丸くつるつるになっていた。赤や黄色や緑や紫や白の、錦鯉みたいな、華やかで美しい味わいだった。鉱物学ではジャスパーと呼ばれる種で、石英に不純物が混じったために様々な色が生じ、不透明な塊になったものらしい。日本名では碧玉。一般には錦石とも言われる。

その時は耳が千切れるくらいに、風が冷たかった。石を拾うために腰を曲げ、頭を下に向けていると寒さがだいぶ防げた。だから私はなかなか石拾いを止めることができなかった。塩辛い波しぶきが頭にかかった。陸の方からドライアイスの煙のような濃厚な霧が流れてきて、前方の屹立した崖の上方を覆い隠しはじめた。その霧から勢いが強く荒い雨粒がばらばらと落下してきた。この地方沿岸の気候の特色で、陸から次々と霧が供給されるので、押された霧は海へと這い出すのだった。



季節も8月のお盆が過ぎ、お客も少なくなり、ヘルパーもひとり、またひとりと去って行った。うーさんは別のユースホステルのヘルパーをするために去って行った。神原智子も自家用車で去って行き、ユースホステルには私とメガネの自転車少女だけとなった。ある日、ユースホステルのホステラー(泊り客)の少女が、宿で貸し出している自転車のブレーキが効かなかったために、下り坂で転倒して、顎を大ケガする事件があった。私とメガネ少女で、件の彼女を医者に連れて行った。宿に帰り、オーナーの開田さんに事の次第を伝えると、我関せずの態度で無視された。私はオーナーのその態度に憤慨し(元教師なのに!)、早めにヘルパーを辞めようと決めた。しかしせめてうーさんが戻るまでは居続けようと思った。


ある日私は、唯一3階にひとつある部屋(神原智子が過ごしていた部屋)に入って、遠くに見える霧多布岬と眼下の霧多布湿原をパステルで写生した。描いた絵はユースホステルを去るときに、お世話になった鑓水先生(たまにユースホステルに手伝いに来てくれていた小学校の先生)にプレゼントした。うーさんが予定よりもだいぶ早くユースホステルに戻ってきたので、メガネ少女は宿を去ることになった。私はJR浜中駅まで見送りに行った。

私がユースホステルを去る時が来た。少し前に、帰路に就いている神原智子から私あてに手紙が来ていた。小樽で泊まった民宿が良かったので、ぜひ泊まったらいい、と書いてあった。私は帰りがけに、嶮暮帰島上陸探検ツアーでお世話になった、漁師兼旅館業の親父のライダーハウスでアルバイトをすることにした。夏の観光シーズンも終わりに近づき、客は少なかった。霧多布岬にある茶店でラーメンを作ったり、昆布干しを手伝ったりした。

神原智子とは後日、東京で2度会った。彼女は仲間と古本屋を開業するらしく、忙しそうだった。1度目は彼女の住んでいる千葉県の我孫子市まで迎えに行き、東京都内をドライブした。ファミレスでランチをした。私は自慢の写真作品(モノクロを自分で焼いたもの)を披露した。国道から首都高速湾岸線に入り、西に進路を向けた。途中秋葉原のCDショップに立ち寄って、そのあと中野にある「クラシック」という名曲喫茶に行った。クラシックとは、東京都中野区にあった伝説的な名曲喫茶で、クラシック音楽を店内で流している古風な喫茶店だった。コーヒー1杯で何時間でも過ごすことができ、ミルクはペットボトルの蓋に入っていて、7000枚のSP、2万枚のLPを所蔵していたらしい。リクエストは黒板にチョークで書くことで行い、食品の持ち込みも許可されていた。帰路に就く頃には夜になり、私は神原智子を我孫子まで送っていった。途中、早稲田通りを通った時、神原智子は「ここを高田馬場駅からキャンパスまで歩いたんだよなあ」と話していた。

2度目は私がトルコ旅から帰国して、4月からの写真学校の入学を目前にした3月に会った。彼女が仕事をしている京浜東北線の王子駅に近い古本屋で待ち合わせした。私は村上龍の『愛と幻想のファシズム』上下2巻の文庫本を頼んでいた。二人で「飛鳥山公園」を散策した。

その後、手紙のやり取りが数度続き、私がうっかり「ラブレターもどき」の手紙を書いたら、激怒の言葉があふれた手紙が帰ってきた。私はしたたかにフラれたのだった。神原智子とは、あれから30年、一度も会っていないが、ネットでたまたま見かけた記事で、伝統芸能関係専門の古本屋『アルバトロス(アホウドリ)』というお店をやっていることを知った。神原智子の写った写真も掲載されていて、ショートだった髪が肩まで伸びていて、顔も少しだけ大人びて見えた。その元気そうで懐かしい面影を見れて、すこしだけ幸せを感じた。(了)


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