書評 「東京プリズン」(赤坂真理 著)☆天皇の戦争責任をディベートで追及する話☆
2012年に、第66回毎日出版文化賞、第16回司馬遼太郎賞、2013年に、第23回紫式部文学賞を受賞した、著者の長編小説です。著者は現在、法政大学客員教授(日本文学)でもあります。単行本441ページ、文庫本533ページの大著です。15歳の日本人少女が、留学先のアメリカの学校で「天皇の戦争責任」について肯定する立場でディベートに参加させられる話です。本書は8章立てで、1980年(1981年)と2010年(2011年)を行ったり来たりしながら進行します。

時は1980年。主人公は、15歳でアメリカ東部最北端、北緯44度にあるメイン州に留学させられたマリ・アカサカです。その土地は由緒あるニューイングランドの一角で、アメリカ合衆国の建国の地であり、果てのような場所です。北はカナダと接し、東は崖で大西洋が広がっています。冬は長く凍てつくような寒さです。マリはなかなかアメリカの高校に馴染めず、落第しそうになっています。ある日マリは、級友のクリストファー・ジョンストンから、ヘラジカ狩りに誘われます。州法に背き、幼いシカを殺してしまったグループのメンバーは、遺体をバラバラにして埋めることにします。真理は、シカの左耳を受け取り埋めます。
2010年、マリは45歳で小説家になっていました。マリは30年前のことを回想します。16歳になったマリは、落第していました。元の級に戻る条件に、ディベートで「太平洋戦争における天皇の戦争責任」について論じるように命じられます。日本の学校では習わなかった、日本の現代史と向き合うことになります。マリは東京にいる母に相談します。母は東京裁判(極東国際軍事裁判)で通訳をしていたことがありました。しかし母に断られてしまいます。

1980年12月中旬、マリはクリスマス休暇の前に、ディベートの中間発表をせよと、スペンサー先生から言われます。「真珠湾攻撃から天皇の降伏(ポツダム宣言受諾)」まで、と釘を刺されます。日本近代史を習わず「玉音放送」くらいしか知らない真理は戸惑います。マリは勉強すればするほどに混乱していきます。東京裁判というおかしな裁判(戦争をしただけで平和に対して罪がある、と戦争の勝者が言える)や、宣戦布告なしの真珠湾攻撃(大使館の連絡ミス)や、天皇の地位の不思議さ(国権の主体なのか、政治の傀儡(操り人形)なのか、天皇は神なのか王なのか人間なのか)考えれば考えるほど分からなくなります。天皇の一人称を表す「朕(ちん)」は英語の「I」と同じなのか、使役動詞の日本語と英語の使い方の違いなど、言語論にも波及していきます。
ディベートまで3か月。マリはアメリカが、イギリスからの独立戦争、南北戦争、メキシコ戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、キューバ危機、ヴェトナム戦争と、戦争ばかり続いてきたことを知ります。いっぽう日本では、戦後戦争を考えることはタブーになって、代わりに、受験戦争、交通戦争、企業戦士など、戦争の文字があらゆることに使われていることに思い至ります。アメリカ人はヴェトナム戦争のことを「間違った戦争」「恥部」と呼んでいました。
ディベート本番の日がやってきます。講堂は裁判所の法廷のように設置されていました。「天皇(ヒロヒト)の戦争責任」の擁護派は、マリとアンソニー、否定派はクリストファーでした。まずは天皇の地位から話が始まります。天皇家は「天孫降臨神話」から始まり、律令制を作り、奈良・京都と都を移し、公家文化を作り、用心棒的存在だった武士が力を持ち、平氏が朝廷から実権を奪うと、対立する源氏が平氏を滅ぼして政治の実権を握り、武家政治が江戸時代まで続き、徳川幕府は薩長土肥によって倒され、明治維新で「王政復古」して天皇が復活する。天皇はなぜかどの勢力にも滅ぼされず残ってきた・・・。明治時代以降は、大日本帝国憲法(明治憲法)で「統帥権」が定められ、陸海軍を統率し、政府(内閣)はこれを「輔弼(ほひつ)」する、と定められます。マリは、スペンサー先生が「東京裁判をやり直そうとしている」と感じます。いつの間にか、スペンサー先生が「ウェッブ裁判長」、クリストファーが「キーナン検察官」、アンソニーが「ブレイクニー弁護士」、マリが「A級先般・東条英機」になっていました。

本書は、歴史、政治、スピリチュアルさらにはSFファンタジーを盛り込んだ力作となっています。その多面性ゆえ、どのような好みの読者であってもひきこまれること間違いなしです。多様な要素を織り込みながら、ストーリーは現在と過去、 アメリカと日本、はては現実と幻想/夢/記憶の間を自在に行き来します。本書に見え隠れする、アメリカ文化(特にハイスクール文化)、英語の使用法、ポストコロニアル理論(植民地)、宗教などの社会・人文科学諸分野に対する作者の見識の深さには、驚かされます。
ただこの少説が、マリという少女の私的な経験を通じた現代日本史再考に終わらず、ファンタジーの色彩を帯びるのは、描かれる世界がマリの現実だけではなく、マリの紛れ込む夢の世界であったり、母の記憶だったりするからです。例えば、マリが寂しさを紛らわそうと日本に電話をかければ、電話の向こうはなぜか現代の日本、電話に出てきたのは母親ではなく、母親の年になった自分、というような時空のワープが各所に散りばめられており、本書を飛びぬけて面白くしています。
このスピリチュアルな表現の意味は「天皇の戦争責任」をめぐる議論ではなく「天皇の戦争責任」を含む戦争と戦後の歴史を語らず、闇に葬っている日本人の集団的記憶喪失、そしてそれによって葬られてしまった人々の記憶、なのではないかと思います。「勝者によって書かれた歴史」という記憶に囚われている、ということを「東京プリズン」というタイトルが物語っているように感じました☆



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